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もうお母さんの事、守らなくていいよ

欲しいもの
みたいもの
やりたいこと
自分の好きなこと

そういったことに対して、自分に制限してきたことは、
親の考え方の癖で
学習してきたことだということがわかりました

最初はそのことすらわからなかったのですが、
セッションを重ねるごとに、いざわかってくると
なんでこんな辛い目にばっかあわないといけないんだと
今度は親を恨みだしました


あんとき、もっと私を自由にしてほしかった

あんとき、もっと私に自信を与えてほしかった

あんとき、もっと私を支えてほしかった


うらみつらみが、増え続け、長い間、苦しみました


この頃、
親にされてきたことの苦しみを
今度は自分が子どもたちにやっていることと繋がって
事実を知る痛みが伴うことが増えてきました

そして、
子どもたちが自分に対しておこしている行動と
子どもの頃の自分と重ねて考えるようになりました


なんでこんなに私を悩ませるの?と
親として自分勝手な思考で子どもたちを見てきていましたが、
私が子どもたちを心配することで
私が親として成り立っていたんだということが
子どもの頃の自分と母との関係でした


親が子どもの心配をしていることで自分を認識できるために、
あえて心配という苦悩(不自由)を選択しているので、
そのことがなくなると
自分の価値がなくなったと親が孤独(空虚)になることを心配して、

子どもたちが親にとって問題となる行動をとり、不自由をえらび
自分の世話をやかせることで親の生きがいをつくっていたんだ
ということが自分の過去の姿と繋がりました

自分が自由になって子どもを開放する大切さが
しみじみとわかってきました

もうお母さんのこと、守らなくてもいいよと言われた意味が
やっとわかってきました

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信じる力

人と話をしていて
自分の気持ちが通じた時、理解してもらえた時、
とても嬉しいあったかい気持ちになることが
この頃とても増えてきました

私の言ってること、わかってくれる人がいた~と、
探していた大切な宝物を手に入れたような気持です

今までは、
そのことを素直に受け取れませんでした

まさか私の事なんかと、自分に自信がもてず、
相手が自分を思ってくれていることに対して
相手のいったことに下心があるように思えたり、

ほんとの気持ちを確かめたくて
じゃあどこまで私を理解してくれてるのか?と
どんどん、欲求をエスカレートしていました

自分の事を思ってくれている人は、
その欲求を満たせてあげたいと引き受けてくれますが
もともと素直に受け取ない為に、
自分の気持ちが満たされたかどうかもわからないし、
当然、相手の気持ちにおかえしをしたいという気持ちに
つながりませんでした

自信がなく、いつも自分を責めて
これ以上傷つきたくなかったので、

相手がこちらの気持ちを知りたくて
試すように逆の言葉をいったとしても、
ほら!やっぱり!
もうこれ以上信じるもんか!と
頑なにバリケードをはり
相手の気持ちをくみ取るどころか、
被害者の塊になっていました

周囲から受け入れられたり、
誰かから愛される感覚を知ることによって、
自信を持てる気がするのですが、

その誰かをただじーっと待ったり、
愛してほしいと要求を出し続けているだけでは、
うまくいかないようです

自分のささやかな言動で、相手に笑顔が浮かぶとき、
自分の中に、相手を元気にする、
幸せにする力をちょこっと見つけることができたとき、
あ、私にも○○ができるんだ~♪と自分を信じることができて、
相手を信じる力が生まれてくるのかなと思います



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こうもり

鍼灸院のパート先から2日間
臨時で昼から夜にかけて仕事に入れないか頼まれていました

従来のお昼のランチパートがおわってから
いけなくもなかったんですが、
どっちも行こうと思う私は
すごく我慢してる状態だって思ったので
ランチパート先に休みをもらいました

すると今度は休むことに対して罪悪感を感じて、
不安になってきました


私はいつも、自分で物事を決めるのが苦手で
その時その時、状況に合わせて
自分の気持ちや意見などどうにでもかえられます


先生に臨時で受付パートしてって言われたら断れんやん
ランチパート休んだら他のパートさんに悪いから休まれへん

それで、どっちにも良い顔してしんどくなる

かけもちしてしんどなって
機嫌悪なったら家族に悪いから休んでん

ランチパート先、
最近暇やし、私おらんでもええと思うねん
(おったら邪魔やと思うねん)

休んだ罪悪感をそうやって誰かのせいにして
自分に言い訳してる


これも、過去の経験からくる思考の癖


自分がやっていること、世代をずらして考えると、
私が決めれば、それが証拠で怒られ
決めなければ、それも原因で怒られ
なにやっても中途半端とあきれられ

どんな答えをだせば自分の立場が良くなるのか、
どう答えれば笑顔でいてもらえるのか
どうすれば認めてもらえるのかと
顔色をうかがって生きてきた事を、
今も相手がいないのに再現しています

○○に悪いって言葉を使うのは、
悪くないよって言って欲しかったからなんだと思います

う~ん たまらん 辛すぎる 



今は、そうやってぶつくさいう人がいないんだし、
いたとしても、
私を認めて私が自由になるのが嫌で
認めようとしないんだから、
まずは私が自分で意思を決定することで
自立していこうと思います



私は、かけもちがしんどいからランチパートを休みます

これに決定しました ^_^ 




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日曜と夕方が嫌い

私は、日曜日と夕方がとても苦手です

その時間帯になると、
ずっと責められているような気分に陥って
のんびりしている子どもたちにイライラします

だからといって、なにかをするでもなく
じーっと自分を責めつつもんもんと終わり
私はなにをしていたんだろうと不安がのしかかってきます

主人が仕事からかえってくる7時頃になると
そういう気持ちが消えて行きます

私は、これが嫌で、子どもたちが小さいころから
平日の夕方や土日も習い事をさせてそのつきそいという
用事をつくって忙しくしていました

私が、毎日過密スケジュールを組み、
さあ○時までにごはんたべなさい
明日は○○があるから、早く寝なさいと
ずっと忙しくしていました

夏休み、近所のおっちゃんに
「ええのぉ 子どもらは夏休みがあって~」と言われた長男が、
「夏休みの方がしんどい」と答えていました

それを思い出すと自虐に走るし、
あんまりにもぐるぐるするので、今の感情って
過去のどの記憶と繋がってるんだろうと考えてみました


私が子どもの頃、日曜日や夕方どんなだったか思いだすと、
テレビを見ていると、田んぼからかえってきた母が
私をみるなり不機嫌でイライラしだし
私を怒鳴りちらしてきていました

どうしたら機嫌がよくなるのかと色々きづかう私に、
やかましいとか、そんなこと聞いてる場合じゃないとか、
かあちゃんはいそがしいんやとかいうし、

じゃあ手伝おうかとそばに行くと、
じゃまやからあっちいっといてと言われたり
なにもしないでいると、不機嫌になられ
どうしようもなくじっとしていました

机に向かって勉強しているふりをしてるときだけ、
母は機嫌がよく、差し入れしてくれたり
「がんばってるんかい?」と声をかけてきていました

母は、私が頑張ってたら機嫌よかったなぁ


いまでこそ、思い返して
ひどいなぁ!と思えるけれど、
子どもの頃は、
ただただ、母の機嫌に振りまわされ
私が悪いからやと自分を責めて、
不安定になるだけで、そんな感情すらわきませんでした


なるほど、
私は、日曜日や夕方になると、
いまだあの頃の子供の状態に引き戻され
なんにもしていないと不安定になって、
子どもが小さいころから、この心境で
家族を巻き込んできていたんだなぁと改めて思いました

じゃあ、どうしてほしかった?
と思うと、

のんびりしとっても、ガンバっとっても
おんなじ母でいてほしかったなと思ったし
そうやって自分がフラットでいる大切さを感じました







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1年

今日、長男が終業式に行きました

4日に上級生の卒業式があってから、
途中、パソコン検定なるものを受けに行きましたが、
ずーっと春休み状態で久しぶりの登校です

今週初めくらいには、さすがに、
「おかん 暇や たまらん、めっちゃ暇や
家でパソコンしてるんはええけど、
誰にも会わん、どこもいかんってのは暇すぎる~」
と言いだしていました

人が見てる いじめられるんじゃないか
人に会うのが怖い 

そんなことをいって、
家から一歩も出歩かなかった1年前を思うと、
家の外に安心感をもつことができてきてるんだなと
嬉しく思いました

今朝は、自分で起きてきて、
準備をすると、「たまにはチャリで駅までいこう~」と
出かけて行きました

長男は学校に早めに行くのですが、
早くきたクラスメイトと駄弁ってるんだそうです

長男の不器用ながらも
人とかかわっていこうとする気持ちが伝わってきました

今日の服装はどうしたらいいかとか、
家をでるまでに急に不安になって
なにやらいってきていましたが
ああでもない、こうでもないと言いながら
でかけていきました

でかけるときの長男の横顔、なんかいい感じでした (笑)

不安なところもあるんだなぁと思いますが、
そうやって自分で色々考えてやっていく姿を
暖かく見守っていってやりたいなあと思いました

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人を傷つけるかもしれん

私の会話の癖で、
本音をいわずにいることがとても多いです

遠まわしな答えを言って
全然相手に伝わらなかったり、
勘違いして受け取られて
(え~ 違うのに~)とモンモンとしたり

トリプルセッションの時にも、
ペアの相手が「めのあたり」って言った言葉に、
気付かない振りをして、
きんたろうさんが「まのあたりやろ?」といったことで、
(ああ、やっぱりそうか)と思いつつ黙っていました

「いつもどういう言い方してる?」とその話題をこちらにふられた時に、
わたしはまの当たりだと思っていたけれど、
それを言ったら相手がきずつくんじゃないかと思い、
(え~、そんなん、私、答えたくないわ~)と、
いてもたってもおれない気持ちになり、
「いや~、その地方のひとはどういってるんやろう?と思ってた」と、
飛ばす作業をしました

これも、過去に経験した怯えや恐怖からくる不安に
追い詰められたような状態での意思決定だったんだと思います


それが私の思考の癖だと言われ
「これ、ブログにかいときなよ」って、
きんたろうさんに言われたけど、
(そんなこと、人にいいたくないわ~)と、
書こうとしませんでした

いった相手を傷つけることになるんじゃないか?と思ったし、
それを書くことでなにになるのか、
自分の中ではさっぱりわかっていなかったので、
忘れたことにしてしまおう~と、今日まで書きませんでした

書かないつもりでいたんですが、
やっぱり気になって文章にしてみたら、
私、すごい我慢しているんだなぁと思いました


いつもそうやって、我慢が入ることで本音がいえず、
人と気持ちが一致しないまま、
表面上だけ話せたような気分になっていても
どこか、虚ろな気持ちが残り
寂しくてたまらなくなるのはこういうわけだったのかなと思います

それとは逆に、
おなじセッションの中で、ペアの相手が
私とおなじように恐怖の中で意思を決定してきたことを知って
(私だけじゃないんだ~)ととても嬉しい気持ちになったり、
相手の言ってることが、自分の中で情景として浮かび、
わかる~~といった時の一致感
なんとも言えない、満たされた気持ちを感じることがありました

こういうふうに、気持ちを開いて相手を見たり、
ちょっと勇気を出して気持ちを伝えてみて
うけとってもらった感覚を得られると
こんなにあったかい気持ちになれるもんなんだと
そのとき感じたことを
傷つけるかもしれんと思って、
自分をかばう事で封印してしまう所でした

人と素の状態でコミニュケーションをとることは
今まで、経験していないだけに
自分がどういう状態でいるのか不安になるのですが、
一致感を感じたことで満たされるものを頼りに
すこしずつ慣れて行こうと思います


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個人懇談

今日、長男の担任と個人懇談の日でした
私は、そのことをすっかり忘れていて
担任から電話がかかってきて、
はじめて忘れていたことを思いだしました 

私はなんて親なんだと凹み、自虐し、色々考えました

子供に話して謝る

担任に謝罪の電話をかける
(主人が担任からの電話をとりました)

きんたろうさんやりんりんさんにメールし相談する

・・・・・

考えに考えてたら、久しぶりに胆石の発作が出て、
背中が痛くて、ムカムカしてきました


今の私に何が聞こえてるのか、どうしたいのか感じてみました


「ほれみてみい、いつもいうとったやろが」
「きっといつかはやるとおもっとったんや」
「あんたは、何をさせてもいつも中途半端なんや!」
「あんたがやったことは、人の信頼を裏切ったことやで」

今の私は、
今日の出来事に対する言い訳をい~っぱい話したい

誰に?

・・・


「そういうことは人として
一番やってはいけないことしたんがわかるか?」
「裏切りは泥棒と一緒やで」
「謝っても一生許されることじゃないわ」
「なんのとりえもないのに、
せめてそんくらいのことはできんのか!?」
「あんたの将来が心配でしかたがないわ」


今の私は、
自分がどれだけダメかを延々話して
そんなことないよという肯定してもらえる言葉が欲しい

誰から?

・・・

約束をやぶり、裏切ったことにたいして、
制裁をうけているような恐怖でカチカチになり

必死に言い訳をしたり機嫌をとったりして
許してほしいとアピールしている自分と
絶対に許してもらえなかったことも思いだしました


許してもらえなかったな・・・ 一度も・・・



これなのかと思いました



「そんなに気にしなくてもいいよ」
「別の日にちにしてもらったでしょ?」
「次、忘れなかったらいいやん」

そう言って、許してやろうと思いました

そして、自分のやったことを
誰かに免罪してもらうことで逃すのではなく、
自分で責任をうけとめて許せばいいし、
大切なのはそのことを忘れないことかなと思います

誰も悪くないし、
ジャッジする必要はないよって自分をみるように、
人をみることができるようになりたいと思います



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誰をもとに物事を決めている?

友達とレストランに入った時、
誰かに急かされているような感覚でオーダーを決めたり

仕事をしていて、自分の中で物事を決めるのではなく
誰かに注意されていると想定したような判断をしたり

さも言わされたような感覚で言葉を発したり

そうやって、意思を決定していく癖は、
自分のなかに決定する意思がないという
偽物の意思決定だということ
(振り切り型意思決定)

そのやり方は、
相手を思いやってるかというとそうではなく

過去に経験した怯えや恐怖からくる不安に
追い詰められたような状態での意思決定であって
自分を守りたいが為の道具となっている


そういった理由で決定させられた意思を
自分を守っているかのように配置してはいるけれど
結局はそれに監視され
支配された状態にわざわざはまり込んでいる


そのなかに自分の意思などどこにもない

そして、その決定はいつも誰かのせいになっている

いつもやらされているという犠牲感がともなっていて
そこに自分や相手を思う心は全くない


そう考えると
人とかかわっていく中で、人を思いやるということは、
まず、自分を思いやることを選んでいるかどうか?

自分を思いやるという行為を選ぶ(認める)というのが、
自分を大切にするということじゃないか?

それができたうえで、
まわりの人間に対してとった行動というのが、
相手を思いやる、人を大切にするということなんじゃないのか?



自分が決めると言う事は、自分はどうなの?という
”まずは自分”ということが考えられた上で判断できることであって、

自分がどうなのか決めずに
人がこうすれば喜ぶと思ってとった行動は

いつでもその行動を犠牲感にすりかえられ
相手を加害者にできるし
いとも簡単に自分が被害者になれる



そうやって目の前の人を大切にできなくて
自分の子供を大切にできるのか?
子供を回復させられるのか?


よく考えてみよう

この考え方の中で
目の前の人とは、自分だということ

自分を犠牲にせず、
自分を大切に、自分を喜ばせることができなくて
人を大切にしたり、喜ばせることはできない



自分を大切に扱えない 自分で決められない
どうなれば大切に扱われたのかがわからない
どれが本当なのかわからない

それは致命的なんじゃないか?

いつまでたっても自分から決定せず
決定させられているという
不幸せな自分のままで居座っているということは
それを理由に
まわりをいくらでも不幸のどん底に突き落とせる証拠でもある



自分も、まわりの人間も、幸せにはなれないシステム

それは、我慢大会のようなもの

自分を大切に、人を大切にした本物の意思決定を行うのか?
今まで通りさせられた感覚で偽物の意思を決定するのか?



さて、どちらを選ぶ?

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プロフィール

zukamama

Author:zukamama
夫がうつ病になり、わが子が不登校になったことから、自分の生きづらさが関係していることを知り、回復に向けてやってきたこと、きづいたことを書きづつっています

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