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マッサンと小樽

今、NHKの朝の連続ドラマがマッサンと言うタイトルで、
日本初の国産ウイスキーをつくった竹鶴政孝と
その妻リタがモデルとなる“夫婦の奮闘記”が放映されています

私は、このドラマに特別の思い入れがあります

このモデルになった竹鶴政孝さんが、
北海道の余市というところにウイスキー工場をつくっていて、
私は7年ほど前にこの工場に行ったことがあります

工場に行くことが第一目的ではなかったのですが、
一緒に行った主人のお兄さんがウイスキー好きで
ついでに行こうとそそのかされ・・・もとい、提案があって
一行で見学に行ったのです

余市駅から歩いて数分で、この工場があるのですが、
中に入るとまるで外国?とおもわせる風景が広がっていました
ウイスキーをつくる工程を見ることができて、
竹鶴政孝さんとその奥さんがすまわれていたお宅拝見や
ウイスキーの試飲をすることができ、
そこで、主人と主人の兄が、
嬉しそうにニコニコと
色々なウイスキーを試飲していたのを思い出します

北海道に行った本当の目的は、
小樽に主人のおじいさんのお墓があると言う事が、
とある理由でわかり
主人のお兄さんがみんなでお参りに行こうと
提案して小樽お墓参りツアーが結成されました

主人のおじいさんは、主人のお父さんが7歳くらいの時に
北海道の小樽で病気で亡くなられています

主人のひいおじいさんというのが、
元は岩手で所帯をもっていたのですが、
奥さんと子供をおいて
北海道で一旗揚げようとやってきて一代で商売を立ち上げ
そこで知り合った人と結婚して
その一人娘の養子にこられたのが主人のおじいさんでした

今、ドラママッサンでは、マッサンが
北海道の小樽でニシン漁師の親方・森野熊虎と出あい
余市の存在をしるところで、
森野熊虎が、
「余市は一度失敗してももう一度やり直せる場所だ」
といったようなセリフを言っていたのが印象的でした

主人のひいおじいさんも、そうやって岩手から出てきて
一旗揚げようと頑張っていたのかなと思います

熱い思いを胸に抱いて気張っているひいおじいさんとは裏腹に、
主人のおじいさんはおとなしくて控え目なひとだったと聞きます

そして、ひいおじいさんが亡くなられて2~3年くらいで
おじいさんは亡くなられたそうで、
私は、その頃
ひいおじいさんがおいてきた奥さんと子供のことを思い、
そんな酷い事をするから罰があたったんだと
そして、今の私の家族はその呪いをうけて
主人がうつ病になったり
子供たちが不登校になっているんだと、
真面目に思っていました

さて、随分と過去をさかのぼって話をしましたが
私が今感じている事は、
自分が呪いをうけていると真面目に思っていることのこっけいさを
書きたいなと思っていました

確かに、おいてきぼりにされた奥さんと子供は
一家の大黒柱がやりたいことを達成するために
自分を見捨てたと思うと腹立たしく
うらめしい気持ちも持っておられただろうと思います

でも、だからといってその負の感情を3代目の私たちが
ひきうけないといけない理由なんてないよなと
最近思うようになってきました

旦那さんが一旗あげたいというならついて行く選択もできたのだし、
奥さんと子供はそうしなかったけれども
いまだ地元で子孫は繁栄し
家族で建築会社を営んでいるとききますし
若くして亡くなられたおじいさんは気の毒ではありますが
こうやって子や孫が生まれ
長年かかっていますがおじいさんをしたってお墓参りにくるまでの
おじいさんの存在は私たちの中で生きています

マッサンをみるたび、頭の片隅で、
主人や主人のおにいさん、私や私たちの子供が
おじいさんを思い、そうやって思う事で、
私たちも繋がりや心のふるさとのようなものを
うけとっているのではないのかなと思います

そんな命のつながりを、まるで呪いをかけられ
末裔まで幸せにはなれないような思い込みをして
不幸でいることに浸っている自分は
なんとももったいない人生をおくろうとしていたのかと考えました

自分がなんにもしないで、
勝手にダメな私にはまりこんでいるくせに、
呪われてるだなんて責任をおしつけられている側からしたら、
なにを無責任に勝手にひとのせいにしてるんだと
呆れられている事でしょう

目の前の出来事をどううけとるかで
自分の過去や未来もかわっていくものなんだなと
マッサンをみながら小樽や余市を思い出し
呪われていると思いこんで不幸に浸っていた自分と、
繋がりや心のふるさとと思って暖かい気持ちになっている今とを
感じながらドラマをみています

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母の嫁入り

以前、母が実家に御嫁入りするときのエピソードを
ブログに書いたように思います

今年のお盆、母に聞いた嫁入りのエピソードが
そのときと違っていました

確か、以前のブログには、
最初に決まった嫁ぎ先が本家よりも格の高いところだったから
嫉妬を買ってそこに嫁に行くなら縁を切ると言われたと
母から聞いて書いたのですが、よくよく聞いたら違っていました

最初に決まっていた嫁ぎ先というのが、
理容室を経営している小さいお家だったそうで、
結納金も少なく
本家が母をそんなところにやるのなら縁を切ると
自分の娘を苦労しそうなところへみすみす嫁にやろうとする
母方の祖母に対して抗議するためにいってきたことでした

母方の祖母は、その間
たまたま裁縫をならっていた先生の知り合いから、
私の実家の縁談話を聞き、
結納金も最初の所とは比べ物にならない金額だと知り、
母を連れて最初の縁談話の相手に謝りに行き、
とっとと縁談話を断り、
用意していた安価な嫁入り道具も全てキャンセルして、
それよりももっとランクが上の箪笥や着物の生地を買いこみ、
毎晩毎晩、仏間で祖母が一生懸命着物をぬっている後ろ姿を
いまだに思いだすと母が言っていました

祖母は、高い家具を用意し
良い生地の着物を縫ってやるという
見当違いによかれとおもってやっていたんだろうと思うし、
そこには母の存在はなく、
元はと言えば祖母の空虚を埋める行為だと感じるし、
母は何とも言えない気持ちで見ていたんだろうなと思います

そもそも、最初の嫁ぎ先にしろ
祖母の不安を解消するためだったんじゃないかと思うと、
私も祖母にお前が嫁に行かないことが不安だと
しつこく言われた経験があるので、
なんて勝手なんだろうと思って聞いていたのですが、
母はその事に対して
祖母が喜んでいる姿だけを思い浮かべているようでした

私は、まるで、母が祖母の不安や空虚の為に
身売りされたかのように感じました

そこまでされても母は直接祖母にはなんにもいわず、
それなのに私の実家では時と場合によって、
自分の扱われ方に対する怒りを撒き散らし、

自分の承認欲求を家族に確認し続けたりと
コロコロ気分を変え家族を巻き込む生活をしていました

これは、私にも通ずるところがあります

馬屋

私は小学校6年生のころに、一人部屋がもらえました

私の実家のつくりは、昔の農家の家で
玄関を入ると20畳ほどの板の間があり、
板の間をはさんで向かって左側が座敷空間、
右側が台所やお風呂、トイレなど
生活に使うものが揃っている部屋が集まっていました

私の新しい一人部屋は、
右側の生活に使うものが集まっている方の
馬屋があったところを改装してつくられました

それも、私の同意は全くなく
作っている間も何をしているのかいまいちわかっていませんでした

いざ出来上がり、「ここがお前の新しい部屋や」と言われて
私は、(捨てられたんだ)という感覚になりました

みんなが寝るときに行く座敷は左側、私だけが右側
間には、20畳もの板の間の空間

その板の間には、囲炉裏もありましたが、
寝るときには火も消されて誰もいません

寂しくて、寂しくて

夜、みんなが部屋に入った後
母が台所の用事を済ませてお風呂に入り
私の部屋の前を通って自分の部屋に行こうとするとき
母を呼びとめては学校での話や友達の話を延々として
母を足止めしていました

母は、きいているのかそうでないのか、
顔色を特にかえるでもなくぼんやりと、
ただ、うん、うんとうなずき聞いていて、
まるで、私の話が終わるのを我慢して待っているようにも見えました

それでも私は母と一緒にいたくて、
毎日、お風呂上がりの母を呼びとめては
いろんな話をしつづけました

私の話しのネタがつきると、
母はみんなのいる部屋にかえって行きました

何の満足もえられない、ただ寂しい感覚が残る時間でした

カーディガン

田舎で親戚が集まると、電車で来た人の為に
車の運転ができない父に代わり
母が駅まで送迎をしていました

私は、親戚のおじさんやおばさんを
一緒に駅まで見送りにいくのを楽しみにしていました

その頃お気に入りだった
クリーム色でぷくっとぼんぼりのような編み込みがしてある
よそゆきのカーディガンを羽織って
ウキウキしながら車庫の所まで行きました

山ん中で田んぼや畑しかない環境に住んでいた私にとって、
駅はまるでテーマパーク並の楽しそうな場所でした

2両編成の電車や線路
切符の券売機、ジュースの販売機、
駅員さんがパチンと切符を切るしぐさ、
その間を行き交う、よそ行きの格好をしたお客さんたち

駅の隣には、何台ものバスがとまっているバスターミナル
ゆうゆうと行き交う大きなバス

駅の周りには、食堂が喫茶店があって、
美味しそうなどんぶりや麺もののレプリカが並んでいるケース

バスターミナルの逆側には、
特殊合金を作る大きな工場があって
大きな音がしたり、ダンプカーが出入りし、
まるでロボット工場のようでした

それに、駅までの道に、私の通学路があり
おじさんやおばさんたちが通学した道でもあり
いろんな思い出話をきいたり
自分の話もしようと楽しみでした

私は、おじさんやおばさんたちと一緒に
車に乗り込もうと車のそばで待っていると、
運転席に座っている母に
「おめーはこんでいい!」とピシャリといわれました

理由は、私が乗ると、
車に乗る人数がオーバーになるからでした
でも、弟は小さいから
大人のひざに乗せておけば
人数にならないと言う理由で連れて行ってもらえました

なんで弟だけみんなといけるのか
弟ばっかりずるい
一緒に行ける弟が羨ましかった

一緒にいけないことも知らず、
お気に入りのカーディガンにまで着替えて、
ウキウキと喜んで車庫まで行ったのに
みんなの前で、お前は来るなと言われて
とても恥ずかしかった

それに、どうして私だけがつれていってもらえないのか?
人数が多いからという理由も納得できなかった
なにより、私も一緒についていきたかった

駅に行って色々なものをみたかった
お気に入りのカーディガンでお出かけしたかった
車のなかで、おじさんやおばさんと
色々話しながら盛り上がりたかった

どの楽しみもなくなって
私はぼんやりと
車庫の近くの柿の木の下で
みんなが乗ってる車を見送っていました

ゲームボーイアドバンス

長男が5年生の時です

その頃の私は、主人のうつ病と長男の学校でのいじめ問題で
いつも頭を悩ませていました

学校で懇談があり、私は担任に長男がいつもいじめられている事
我が家は主人も病気だし、
大変だという事を伝えようと学校に向かう途中
携帯に電話がかかってきました

当時、仕事を長期療養休暇で休んでいた主人に、
家の中でうつうつとしてないで、
気晴らしに子供たちを一人ずつ連れて遊びにいったらどうだと
私から提案し、主人はいわれたまま
まず、長男を連れて梅田にあるポケモンセンターに行っていました

ポケモンセンターでうっている、
ゲームボーイアドバンスを買ってほしいと長男が言っている
幸い、手元にお金があるからかってやってもいいか
との電話でした

ちょうど、ポケモンのゲームがはやっていて、
長男のクラスでも話題でもちきりだった時期だと思います

私は、(ゲームなんか!)と、
そんなに悪いものをなぜ買って良いかなどきいてくるのかと
怒りとともに主人に買わないでやって欲しいと言いました

私の返事を聞き、一度主人は電話を切ったのですが、
長男が一生のお願いだからと店から離れようとしない
買ってやってもいいかともう一度電話がかかってきました

私は、小学校の廊下を歩いていて、
担任の先生と話す手前まできていました

「だめっていってらだめ
あの子はのめり込んだら他の事なんにもしなくなるんだから
絶対だめ」

そう言うと、これから懇談だからと電話を切りました

長男にゲームボーイアドバンスを買ってほしいと
延々ねばられた主人は、私に買うなと言われ
買ってやることもできず、
なんとか長男を説得してくたくたになって家に帰ってきました

当然のことながら、
その日から主人の病状は悪くなりました
私はその時、電車で出かけたから疲れたんだろうと
自分のやっていることは棚に上げていました


後日、私は
長男に、赤いプラスチックでできた
ポケモン図鑑というのを買ってやりました

ポケモンの名まえを入力すると、
ポケモンの特徴が表示されるだけの、しょぼいおもちゃでした

長男はそれをもって、友達の所に行きました

ゲームボーイアドバンスを使って
ポケモンのゲームソフトで遊んでいる横で、
長男は、ポケモン図鑑でゲームをしているふりをしていました

そんなもので友達同士のやり取りができるわけもなく、
友達がやっているゲームが見たくて
横から覗き込むようにしていると、
うざいねんおまえ とか、 じゃまやねん あっちいけと言われ
それでも側にいる長男を
友達はつきとばしたり、蹴ったりしてきました

とうとう、側にいられなくなった長男は、
同じマンションの階段の1階でみんなが話している声だけをきいて、
じっと座っているところを私が迎えに行きました

そんないじめられてまで、なんでいるんだ
かえっておいでと長男を呼ぶと、
ここで友達の会話を聞いているだけで楽しいと返事があり
私のいうことをきかない長男への怒り
長男をいじめて仲間はずれにした友達への怒りで
うっすらと感じた悲しみを打ち消しました


この話は、以前ブログに書いた
私が中学の頃使っていたスキー板が
木でできた伯母のお下がりだったことと、
なんら違いがありません
スキー

私はあの時、みんなの前でぼろいスキー板をはいて
恥ずかしかったと母に言ったけれど、
長男は何にもいわず、
友達から仲間はずれにされても、
近くで声をきいているだけでいいと
友達のそばからはなれませんでした

挙句に私は友達を優先する長男に嫉妬し、
無理やり家に連れて帰ろうとしました


ゲームボーイアドバンスで友達と揃ってポケモンゲームをし
ゲットしたポケモンを見せっこしてもりあがったり、
対戦しあったり、交換したり、
そんなやり取りを、また次の日学校に行って話して盛り上がる

そんな中、長男は次の日学校にいっても、
友達との話題についていけず
どんどんぽつりと孤独になっていっていたでしょう

私は、長男が友達と遊ぶ楽しみを奪い、
一緒に遊べない環境をつくって被害者意識を植え付け、
人と関わることの面倒くささをつくりだし、
私が経験してきたことを思い知らせようとしました

それだけでなく、
主人に対しても、私がこんなに子育てで大変なのと、
大変さを無理やりでっちあげて思い知らせようとしました



長男がいじめられていたのではなく、
長男がいじめられるように
そして誰ともつながり会えないように、私が仕組んでいました


私におんぼろのスキー板を持たせた母のように

スキー

冬季オリンピックが開催されていることで、
ニュースなどの報道番組をみていると、
スキーをしているシーンをよく目にします

私は、雪深い所で育っていて、
小さいころからスキーに縁がありました

小学校や中学校では、
冬になると自分のスキー板をかついで、
スキー場に行き、
1日すべって遊ぶ日がもうけられていました

小学校のころでは、
そり遊びに夢中になっていられましたが、
中学になると、同級生では
今オリンピックの競技になっているような種目の
学校代表になるような子が数人でるほど、
スキーのレベルの高い環境であるにもかかわらず、
私はというと、
父親の妹たちがつかっていたもので、
だいたい昭和24年とか25年あたりに
生まれたひとが使っていたぼろっちい
長靴をはいたままスキー板に固定するという
旧式のスキー板に、
ストックは、
竹の棒にきりで穴をあけて、
ビニールのひもを通した母手作りのものでした


クラスのみんなは、色とりどりの奇麗なスキー板で
ロボットみたいな歩き方になるかっこいいスキー靴
ストックだってスキー板と色を合わせてあったり、
蛍光色でかっこいいストックを持っていました


私のスキー用品のあまりにものみすぼらしさに、
男子は、
「おまえんち、どんだけ貧乏なん」とバカにしてきました

女子は、見て見ぬふりしてきたり、こっそり笑われたり
声をかけるのをためらうしぐさを感じ
自分から
「私、ソリーが専門なんだけどな~」と
強がって言っていました

みかねた仲良しの友達が、
ストックを交換してくれたのですが、
そのストックを使って山のてっぺんから滑り降りるときの
あの滑りやすさ

竹の棒だと、雪に突いたとき、刺さって抜けなくなったり、
滑ったりと不安定なのですが、
ストックは、さきっちょに円盤が付いているので、
雪についてもすっと抜けるし、
安定しているんです

思うように滑り降りることができる楽しさに
友達に返すのを忘れて滑りまくりました

友達にもういいかげんに返してと言われてハッと気が付き、
(わたしもこんなスキー用品があったら、
もっとうまくすべれるのに)ととても悔しい気持ちになりました

そして、なにより
そのみすぼらしい格好でクラスメイトの前にさらされている
あの恥ずかしさがたまりませんでした

家に帰ってその気持ちを母に言うと、
「うまかったら道具は関係ない
技術でいくらでもカバーできる」と言われました


4つ離れた弟も、中学になると学校でスキーに行きました


白地に、スキー用品メーカーのロゴがプリントされた、
かっこいいスキー板
それにあわせたストック
ロボットのようなスキー靴

弟は、スキー用品全部そろえてもらって
クラスメイトと同じような格好でスキーに行きました


「これ全部買うのに8万円かかった」
母がうっとりと言っていた金額もいまだに覚えています


(なんでわたしはかってもらえなかったの?)


私は買ってもらえなかったという怒り

私が訴えた時には
うまかったら道具関係ないといったじゃないか
それなのになんで弟には買うわけ?
と言いたい理不尽さ

もっとうまくすべりたい
滑るのがめっちゃ楽しいという気持ちを
我慢した悲しさ悔しさ

みすぼらしい格好で
クラスメイトに馬鹿にされた恥ずかしさみじめさ

自分がどんな気持ちだったかを
母親に全く受け取ってもらえず
無視されたままの虚しさ

そんないろんな感情を押し殺し、
当時、
自分がスキー用品を買ってもらえなかった理由として、

(きっと、私が中学校の頃より、
お父さんが日雇いで働くようになって
お金がたくさんはいったから
弟には買えたんだろうな

私の時は、そんなにお金がなくて
お母さんは”しかたなく”私に
古いスキー用品をもたせるしかなかったんだろうな
わざとじゃない)
と、自分に言い聞かせた事をおぼえています

私はそう思うことで、
母親が私にぼろい旧式のスキー用品を持たせたという事実や
私がどんな思いをしたか全く無視されている状態を
直視しないようにしていたのかなと思います

スキーをみるとその頃のいろんな気持ちがよみがえります

聞きたかったこと

私が小さい頃、
近所に同級生の女の子がいました
小学校に上がるとともに、
そのこは、引っ越して行きました

おばあちゃんが、
「あんたには言ってなかったけど、あの子はまま子なんや
おまえがあの子に事実を言って、ばれるのを嫌って、
あの家は引っ越していったんやで」と
聞かされました

ずっと友達でいたかったのに、どうして行ってしまったんだろうと
とても悲しい気持ちでいたのに、
私のせいで引っ越したのだときかされて、
どんな気持ちになっていいのかわかりませんでした

高校で同級生になったのですが、
彼女は、卒業するまで私と一言も口をきこうとしませんでした

私が悪いからだと思っていました




もう少し離れた所に、
3つ下に、私と同じ名前の女の子がいました

我儘で、大嫌いでした

いつも私は遠慮してるのに、
好き放題してきて、
小学校の体育館の遊具で遊んでいた時も、
どいて!と、場所をとられました

私は、彼女に 「おにご!」と言いました

彼女も、ままこだったんです

彼女は大声で泣き出しました

先生がやってきて、なにやら私に言っていたのですが
私はなんていわれたのか、覚えていません

”そんなになくことじゃないやん”

そう思っていました





私は、ずっと大人に聞きたかったことがありました




”私の本当の親はどこにおるん?

いつになったら、むかえにきてくれるん?”



トリイヘイデンの、よその子を読んでいて、
ふと、
そう言えば中学の頃まで、
ずっとこんなこと思ってたなぁと思いだしました






ねこ =^_^=

我が家の裏庭に、この頃ノラなのか近所の飼い猫なのか、
シャム猫が入り浸るようになりました

鼻さきと、両耳と手足と尻尾が茶色くて、
ちょこんと座ってる姿がとってもかわいいなぁ~と思い、
スティックタイプの餌をかってきて、こっそりやっては
食べてる姿を見てニヤニヤしています

そんな姿を見ながら、ふーっと過去の回想に入っていました

私の小さいころから、実家では常に猫が飼われていました

最初の猫は、名まえもついていなくて、
ただ、魚の骨の処理班のようなかんじでしたが、
私はそのねこを、たまちゃんとよんでいました

その次に飼われた猫は、私と母で、
おかあさんと名付けました

おかあさんは、何度か子猫を産みました
雄猫がすきを狙って殺しに来てしまって、
なかなか育たないことが多かったのですが、
たまたま、私の部屋で子猫を出産し、
その猫たちがどんどん育ち、
最多で10匹くらいになったことがありました

どの猫も、特徴があって、ある一匹など、
私のブラの紐が大好きで、
洗濯物をとりいれると器用に私のブラだけをもっていってしまい、
とんでもないところに放置されてることがありました

母と二人で猫たちに、あだ名のような名まえをつけて、
猫たちの面白い習性を、一緒に笑いあって話しました

餌の時間になると、母は、猫たちに
優しい笑顔で語りかけるように餌をやり、
そんな光景を、胸がキューッとなる思いでみていたことも覚えています

10匹の猫たちが大きくなった頃、私は就職で、京都に出て行き、
帰省したときに、猫の姿が一匹もありませんでした

「あれ?おかあさんらは?」と母に聞くと、
全部捨てられたといわれました

確か、祖母が捨てたと母が言ったように記憶しているのですが、
私はなにがなんだか、あんなに可愛がっていた猫たちを、
よくもそんなことができるもんだと思ったのですが、
でも、そのことを怒った記憶がありません

母と私が笑いあって猫をかわいがることに、
父はイライラし、猫に当たり散らしていました
父は、囲炉裏のそばで火にあたってる猫を、
蹴ったり叩いたりしていました
私は、そんな父を憎らしく思いました

そして、なんで祖母が猫たちを捨てたのか
いまだに理由がわかりません

母は何にもいってくれませんでした

私は、その後、猫アレルギーになりました
猫をだいたりすると、顔じゅうが痒くてたまらなくなります

どうして、猫の事をこんなふうに思いだしたのか
いまいちわからないし、
なんだか、とりとめのない文章になってしまったんですが
ちょっと、書き留めておきたくなりました


親のエゴと情

私が小さい頃は
よく家のお風呂の薪をくべたり
囲炉裏の火をつけたりする手伝いがありました

でも
わが子にそれを教えようとしたことがありませんでした

主人は田舎生活にあこがれていて
キャンプも大好きで
行こう!と結構誘ってくれていたけれど
いざ行くようになったのはほんの数年前から

それまで
[私は田舎でずっとキャンプ生活みたいなこと
してたんやからもうたくさんやって。」と
断っていました


子供たちに自分が小さい頃経験したことを
なぜ教えなかったか?
なぜ経験させなかったか?

それはその作業に嫌悪感があったからでした

その嫌悪は母から・・・

母は私が土をさわることや
農業の手伝いをすることに対して
とても嫌な顔をしました

台所のことや洗濯物など
やらされるのは家事のみで

覚えているのはジャガイモほり
そしてお風呂や囲炉裏のたきつけ

それもおばあちゃんにやる様に言われたんであって
母には農作業を手伝うように言われたことはありませんでした

実家は北陸の山奥で
冬にはたくさんの雪が降り
ゆきかきの仕事もあったのですが
全く手伝わされた記憶がありません

私が農業を手伝うと必ずと言って言ったことが
「おまえが農業できる子になると
農家に嫁にいかされる そしたら苦労せんならん
農業なんかしらんほうがええ」

母の意思が入ってたんだろう

私どころか子供たちが
田舎のおばあちゃんの手伝いがしたいといっても
良い顔をしない

母が自分の生活を嫌悪してるから
自分がやらされてるからきっと大嫌いなんだろう

考えてみればそりゃそうだろう
自分がここに嫁に来た経過をしっている

それに対して怒りや悲しみや不満を
ずっと心に押し鎮めたまま生活していたんです

無意識の態度にでてもしかたない・・・


私は家族が嫌で高校の卒業と同時に家を出ました
そう思っていました

でも今考えると違うかもしれない

母の嫌悪感が私の心にリンクして
出て行きたい!という気持ちになったのかもしれない

高校卒業して
就職先の寮に行く日
母と寮の近くに住んでいる母方の祖母がついてきてくれました

祖母は同僚に正座して両手をつき
孫をよろしくとあいさつしてあるいていました
母は黙って片づけをしています

部屋の片づけが済んで
母と祖母がかえるときになっても
母はとても私にそっけなく

祖母は何度も何度も振り返り
私に手を振りながら帰って行ったのに
母は一度も振り返ってくれませんでした

(冷たい人・・・)

寂しくて寂しくて
母が寂しい態度を見せてくれたら
逆に安心できたかもしれないのに
あんなにそっけなく帰っていくだなんて
もう絶対母親をあてにしないぞと
やっぱり家をでて良かったと
恨めしい気持ちで母の後ろ姿を振り切りました

私は寮に戻ると新しい友達と色々しゃべったり
新しい服 新しい家具 新しい生活
どれもこれも新鮮で楽しく
自由を手に入れた気持ちでした・・・



それから10年ほど後になにかのきっかけで
祖母があの日の事を話してくれました

私が新しく寮に引っ越したあの日

母は私が見送る姿を振りかえられないほど
背を向けた時に泣いていたんだと・・・

祖母の家に泊まったその日の夜

夜中じゅう 母は泣いていたんだと

いくら祖母がなだめても
ずっと ずっと 朝まで泣いていたんだと・・・


・・・知らなかった・・・

そんな風に思ってくれてただなんて知らなかった・・・





今 母のいる北陸はものすごい寒さ

ニュースでも大雪だと言っています


父はこの大雪で命を落としました

雪かきをしている最中に柔らかい雪に足をとられ
身動きできないまま助けを呼んでも
山の谷に たった二軒 家があるだけの過疎の村で
誰にも気づかれず何時間も雪の中にいて
母が別の所で雪かきして
返ってこない父を心配して見つけた時には
やっと会話できるかできないかになっていたそうです

父はそのまま
急性心不全で死んでしまいました・・・



母は冷え切った父をみつけて
あわてて毛布やあったかいお湯を用意したのに
となりの本家のおばさんに
「なんだかんだとさわらないほうがいい」といわれて
辞めたんだとお葬式に聞きました


そんな馬鹿なはなしあるか!
その行為で父はたすかってたかもしれないじゃない!
なんで隣のおばちゃんに言われたからってやめるわけ!?
そう言って怒りました

でも母は、「かあちゃんにはでけん」って
「本家のおくさんに逆らえん」って・・・



私の実家は分家

本家のおばさんの気にさわることを
しちゃいけないという暗黙のルールがあるんです

祭りごとも本家より後
田んぼの水も本家が好き勝手つかった後の水しか使えない
田んぼがいくつもあります

外に遊びに行くのも
本家のおくさんにみつからないように
家の前の道ではなくて
田んぼのあぜ道をこそこそ出かけて行っていました



祖父は本家の跡取りとして
養子になった曾祖父の子

それなのに本家に男児がうまれたからといって
家を充てがえられて独立させられた曾祖父の子

祖父は小さい頃、
自分の家はここじゃないと
何度も本家に帰ろうとしたんだそうです・・・

どれだけ悔しかっただろう
どれだけ寂しかっただろう

祖父はどんな思いをして本家が隣にあるのに
今の家にかえっていたんだろう

いらなくなったからって外にだされるなんて
そんな勝手な話しあるもんか!



・・・実家には
親族に好き勝手に振り回された人間が
どれだけ集まってたんだろう・・・


悔しさや せつなさや 寂しさ 虚しさや 腹立たしさ 怒り

そんな気持ちを胸一杯に詰め込んで我慢して
それなのに本家にいつも気をつかって
そのストレスが子供に降りかかって・・・

ずっと続いてきてたんだ・・・

ずっと渦巻いていたんだ・・・



曾祖父も祖父も父も
そして祖母や母だって
しいたげられさぞつらかっただろう

なぜこんなことまでしないといけないの?

母もずっとくるしんできていたんじゃないだろうか・・・

そんな本家の奥さんの一言で
父を助けることもできなかった

私は父の葬式で本家のおばちゃんに
よっぽど「あんたが父を殺したんだ!」と言ってやりたかった

でも助けなかったのは母

支配に縛られうごけなかったのは母

いくらおばちゃんに怒鳴ったって父は帰ってこない



今、私はこうやって 
エアコンの効いたあったかい部屋で
子供たちとパソコンをうちながら
そろそろ夕飯つくらないとな~なんて
やっている

「あーあ。こんなに寒かったら雪ふれへんかなぁ。」
長男が外を見て行っている




もし田舎に嫁に行っていたら
今ごろ雪かきで大変なことになっていただろう

実家近くに嫁に行っている友人は
この時期みんな家から出かけるのに
ゆきかきしてからでないと外出できない

子供が学校にいくまえに
家の前の道をゆきかきしないと学校にいけない

そして田舎だと同居になったり
近所や親戚のえんがつよかったで
心や体を縛りつけられた状態になっていただろう


母は そんな生活から私を守りたかったんじゃないか?

自分を犠牲にして
私たちを守ってくれたんじゃないか・・・


あの頃は 自分から家をでたものの
都会に放り出されてしまったような
寂しく虚しく行き場所のない不安でたまらなかったけれど
今は母が体を張って私を守ろうとしてくれたあったかさに
体も心もあったかいきもちでいさせてもらえている



雪・・・ 大丈夫かなぁ

実家の屋根には随分と積もってるんじゃないかなぁ

おかあちゃん 一人で大丈夫かなぁ・・・



ちょっとずつができない

今日、裏に生えている枇杷の木を思いっきり切りました。

2年ほどほりっぱなしだったので、
木は2階の屋根よりも高く伸びてしまい、
葉が生い茂り、隣の自治会館の屋根にかかるくらい
伸び放題になってしまっていました。

裏の歩道にも、わさ~っと太い幹がせりだして、
ものすごい幅をきかせてしまっています。

裏で洗濯物を干すたびに、
(絶対あかんよなぁ、これ。)と思いつつ、
見て見ぬふりをしていました。

義母からも、夏頃に
枇杷の葉を焼酎につけたやつがほしいと頼まれていて、
そのときには、
「あれは11月にやるといいんです。」と答えたものの、
嫌で嫌で、のばしのばしになっていました。

枝をちょこちょこ切ろうか考えていたのですが、
ここも、あそこも、じゃあここもと次々切って行ったら、
あんなに生い茂っていた葉っぱや枝が
すっかり無くなって、
(やりすぎたかも・・・)というくらい、
幹だけになってしまいました。

裏を通るひとたちが、「え!」と見上げるほど、
枇杷の木はさびしい状態になっています。

今、家の裏には、あり得ないくらいの木の枝が
山積みになっています。

枝を切った時点で、私の腕はパンパンになり、
背中まで痛くて、
片づける力は残っていませんでした。

当然、義母に頼まれた焼酎漬けなんて
作る余裕ありません。

前回10日ほど前にやったときは、
ちょっとだけ枝を切って、
それをゴミ出しできるように短く切って、
ひもで縛ってあとはゴミ出しするだけの状態にして、
(このやりかたでちょこちょこすれば、
疲れないし、いいな。)と思っていたはずなのに、
今日はそのときの10倍以上の枝を切りました。
(そのときも、義母に頼まれた焼酎漬けはつくりませんでした。)

今日切った木をしょぶんするのに、
枝を切った時間の数倍かかりそうです。
でも、明日はきっと筋肉痛で腕はうごかないだろうな・・・


(なにやってんだろ、わたし・・・)

私は、
本当はやらなければいけないことが嫌だから、
それから逃げるために、
体が動かなくなるくらいのことをやって
逃げているのかもしれないなと思いました。



母が似たことをよくやっていました。

実家は農家で、
母は男顔負けの仕事をしては私に自慢していました。

両腕が動かなくなるほど、歩けなくなるほど
一気に農作業をして、
くたくたになった母をよくみました。

朝早く仕事にでかけ、よその人が出勤前に、
「すごいなぁ」って言ってくれると
とても嬉しそうでした。

祖父や祖母は、そんな母のやり方を
嫌味として取っていたところがあります。
(その頃、父はいませんでした。)

私は、
(おかあちゃんは、一生懸命頑張ってるのにかわいそうや)と
よく思っていましたが、
今日の自分を振り返って、
祖父母が、母のやり方を嫌味ととる意味がなんとなく
わかった気がしました。



プロフィール

zukamama

Author:zukamama
夫がうつ病になり、わが子が不登校になったことから、自分の生きづらさが関係していることを知り、回復に向けてやってきたこと、きづいたことを書きづつっています

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